ミュージック・ビデオ考
僕は結構、MTVは好き。
ダイアー・ストレイツの「money for nothing」や、バグルスの「Video Killed The Radio Star」などを聞いて・見て来た世代だけど。
あの時代に危惧された、音よりも映像にユーザーが引きずられてしまう・・・ということは起こらなかったかな?
むしろ、最近のビデオは良く出来てるなあ、と感心する。
日本のだと、JUJUさんのビデオを何度も見ちゃう。
曲ももちろん良いんだけど、遊びでパソコンをいじるとき、だらだらyoutubeで流してる。
よく出来ているなあ、というのは、楽曲とビデオがきちんと両立していると思うからだ。
JUJUさんので言うと、『奇跡を望むなら』という曲。
これの、ドラマ仕立てのビデオ(ノベルクリップバージョンと言うらしい)が素晴らしい。
ビデオは可哀想な話になっていくんだけど、
映像と、音楽と、無声映画の字幕みたいな「セリフ」を効果的に組み合わせている。
結果、楽曲を損なわずに、別の作品として成り立っている。
最後の、男の子の涙に同情し、笑顔に共感する。
そう、奇跡を望むなら、泣いてばかりいちゃ、だめだな。
幸せなSF世界へどうぞ
SFが好き。
と言っても、そんなにちゃんと読んでるわけじゃないんだけど。
でも、ジャンルとしては、大好きだ。
最近、友人がツイッターにおすすめをアップしてる。
何やってんの?と聞いたら、100冊紹介する約束をしたらしい。
そうして、友人の「紹介」を見ているうちにいろんなことを思い出した。
些末なことに振り回されていた(いる)自分と、壮大な宇宙。
通勤時間に没頭した世界。読んでいる時は、それこそが「真実」だった。
恒星間飛行、超知性としてのコンピューターとの交渉、異星の友。
みんな、SF読もうよ!
グレッグ・イーガン、良いよ!
古いのだったら、ジョン・ヴァーリイ、ラリイ・ニーヴンの世界観、楽しいよ!
つまんないことに囚われて、暗い顔してんの、もったいないよ。
顔を上げて、空を見上げてみようよ。
映画に見る 仕事と使命
仕事とはなんだろう?
この答えは一生をかけて探すものかもしれないし、個人差も大きいだろう。
では、仕事とはどんなものかを考え、それを誰かと話しあおうとした時に、共通する前提としてわかりやすい物語があると、話が早くなると思う。
以前、ブラックホーク・ダウンという映画を見て、そこに「仕事」の極致を見たと思った。
それをいろんな人に話した。
あれから、そういう視点で映画を観ると、そこには「段階」があると思うようになった。
その段階を考え、それを話題にする場合は、
「機動警察パトレイバー 2 the Movie」
「ハッピーフライト」
この2作がちょうど良いと思う。
(もちろん、僕個人の感想です)
まず、ブラックホーク・ダウンは、戦闘状態であり、まさに瞬間・瞬間に自分の「生命」がかけられている。
だが、先の2作は自分で考え、それを上司に相談しつつ動くことができる・・・という状況の差がある。
パトレイバーの方は、いわゆる内戦状態に入りつつある初期状況。
ハッピーフライトの方は、言ってみれば航空パニックだ。
さて、
パトレイバーと、ハッピーフライトを観ると、そこには部下だけではなく、上司の在り方・・・というものがテーマの一つになっていることが分かる。
出世より、自分の使命を重んじたパトレイバーの登場人物。これは「主犯」の拓植行人も同様。
ハッピーフライトでは、機長への昇格テストの飛行が思わぬトラブルに巻き込まれ、その中での各人の行動が描かれていく。
自分の仕事を思うと、自分の使命を独りよがりで考えていたと反省する。
ハッピーフライトの整備係のセリフ、
「だって、なるべく完全な状態で飛ばせてやりたいじゃないですか!」
「そんなの、当たり前なんだよ。全体のバランスってもんがあるんだ」
・・・若いころの自分に聞かせたいです。
パトレイバーの後藤さんのような、切れる上司。
ハッピーフライトの原田機長、山崎パーサーのような誠実な上司。
そして、部下もチームの一員として自分の仕事を成し遂げていく。
仕事は、こういうことなんですよね。
ブラックホーク・ダウンから学ぶ仕事
少し前だが、テレビでブラックホーク・ダウンという映画をやってた。
何の気なしに見始めて、引きこまれてしまった。
後で調べてみたら、すごく有名な作品だった。
週明けに会社に行って考えた。
仕事とはあのように捉えられるのではないか、と。
あのように、とは、
与えられたもの(役職、部署、同僚、さまざまなツールなどなど)をどう考えるか、で仕事は「変わる」のではないか? ということ。
デルタの軍曹とレンジャーの大尉
階級は全然違うし、そもそも今回の作戦ではデルタの部隊をレンジャーが守りつつ共に行動することが要求されている。
(デルタは特殊部隊でもエリートであり、今回はその虎の子を守るのがレンジャーの役割。レンジャーだって並みの部隊ではない)
計画では、ほんの一時間で終わる作戦だった。
でも、ブラックホーク(というヘリコプター)が敵に落とされてしまったことで一転してしまう。
そして、敵地にポツンと残ってしまった自分たちはどうすべきか。
ここで、状況・環境をどの視点から見るか、という「能力」の差が明確になる。
敵が撃ってきているから、壁に隠れていてはだめだ。
撃ってきている敵を倒さなければ包囲網が狭まってしまい、やられてしまう。
だから、大尉の命令を無視してでもデルタは行動する。
結果、それが窮地を脱するきっかけになるのだ。
その他にも、
責任を取る上司
普段の訓練
仲間を助けるために、戦うのだ・・・という信条
戦争という極限だから、軍隊だから、と割り引いて考えなければならないとは思う。
だが、仕事への取り組み方を考えさせられた。
読まずに死ねるか
連休中に、久しぶりにBOOKOFFに立ち寄った。
セールをやっていると。
ほほう。それじゃあ、見せてもらおうか。(某少佐風)
うーむ。
ベストセラー的なものはあるねえ。
でも、おじさんはちょっと悲しくなってしまったぞ。
なにがって。
今の人は、SF読まないのお?
ハヤカワって言ったら、ハヤカワSF文庫のことじゃないの?
こんだけしか、スペース無いの?
まあ、僕みたいに、買ったら売らないし、捨てないしというのなら良いけど。
何度も何度も読み返すから、本棚に大事にしまってあるならいいけど。
昔、会社の先輩と話してて、ショックなことがあった。
その人、いい大学出てて、地頭も良さそうで、読書量も多い。
なのに、
「SFって、難しいから、読めないよね〜」って。
いやいや、そんなことないでしょ?
確かに、グレッグ・イーガンみたいなベストセラー作家の作品でも、ある程度の物理学の知識は有ったほうが楽しめる・・・っていうことはあるけど、
それだって、ちゃんとわかりやすく書いてるから物理なんて分からない人だって(それこそ、小学生だって)分かるようになってるよ?
(それが、作家の能力でしょう?)
でも、
そういうこと言う人って、実際は多いのも知ってる。
文系と理系の違いみたいな感じもあるし。
で、話は戻るんだけど。
それって、「もったいない」よ。
騙されたと思って、読んでほしいなあ。
BOOKOFFのセールなら、100円ですよ! 奥さん!
(あ、あんまり無いって話だったな。じゃあ、図書館へGO!)
・・・何を読むかって?
まあ、猫好きな私としましては、とりあえず
ハインラインの「夏への扉」・・・表紙の猫ちゃんにやられるぜ。
ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの「たったひとつの冴えたやりかた 」・・・これは旧版が良い。川原由美子の表紙とイラスト。
風の十二方位」・・・高貴な姫に泣く。
の「あたりから、そうっとね。最初はやさしくね。
ホリデイズ
まとまった休みはやはり貴重。
普通の休みだと、ネットを見るのも、なんか目的意識がある・・というか、あまり深追いはしないというか。だらだら過ごすことへの罪悪感があるというか。
読書も同じで、ある程度仕事や生活に活かせるもの、即効性がありそうなものをついつい選んでしまう気がする。
この休みは、これといった予定は立てなかった。
やり残した仕事というものもなかった。
さて、
土曜日にいつものように図書館に行く。
返却して、リクエストしていた本を受け取る。
情報論あたりを眺めつつ、ネット関係の棚にも行く。
いつもの土曜、日曜なら、もっと混んでいるのだが、連休だからなのかな、すいている。
棚のそばの読書席もガラガラ。座席券をもらって来なかったけど、まあ、いいでしょうと座って読む。
プログラムが書ける人はいいなあ、などと思いつつ、とりあえずブログの活用などの本をパラパラと。
・・・ついでにCDも借りる。
いつもは聞かないクラシックなどを。
昔の彼女が好きだと言っていた曲の入っているのを何となく探す。
借りた本とCDを抱えて車に乗り込む。
CDは車のオーディオに入れてみる。するすると飲み込んでいく。エンジンを掛ける。
今日は、読みかけのあの本を読もう。
この前気になった、あれを調べてみよう。
月光が、明るい日差しを受けた車内に響く。
・・・今日はいい天気だ。
実は、だからこのブログを始めました。
つらつら書いている。
書くことよりも、読むことの方が時間が長い。
みんな、いろいろ面白いことに気づくよなあ、とか、そりゃ違うだろ、とか。
楽しい。
なんで、ここに書いているか。
今、まさに、
そうインプットした=キーボードに入力したために、画面に現れた
「なんで、ここに書いているか。」という文字を見ている。
白地の画面に、カーソルが点滅している。
待っている。
何を? 僕の入力を。
誰が? パソコン、か。
最近、
自分が無宗教であることを悩んでいる?(ように思える)、ひとの書き込みとかを見た。
死ぬときの怖さを「実感」してしまい、それを緩和する方法論を持たないことに恐怖するのだ。
分かるよ。よくわかる。
僕もそうだった。(今でもそうだ)
今の僕の「答え」は。
自分はどこに居るか。
自分を構成しているものは、本当は何なのか。
物理や生物学、心理学とかを見ていると、身体と分離された意識は無いのだと思われる。
更に言うと、
意識とて、その存在を保証するものは無い。あくまで、「自分」の「感覚」だ。
自分がここに存在していると思うのは、自分の体があることを意識する=認識する体があり、視神経が、皮膚感覚が、内臓感覚がそれを訴える、様に「思える」からだ。
意識とて「幻想」
あるように感じているだけだ。(感じているという表現も、感覚があるという前提条件を必要とするが)
多分。
物体としての自分、動物としての、生命体としての自分は、今ここに存在しているのだろう。
だが、
それを意識する「私」というもの、自我、精神、は。
存在を証明出来ない。(と思う)
ちゃんと言うと、(意識などは)無くても生命体としての「自分」は存在しうる。
逆は無いが。(生命体を持たない意識は無いと「思う」)
つまり、
自分の存在を思ったり、悩んだり、嘆いたりするのは、電気信号や化学反応が反映されたものだ。
それが、ただのデタラメなインパルスから、意識という統合されたものに感じられるようなまとまりを持ったのは、
「進化」
なのだろう。
ミームという「もの」を考えるようになってから、僕の生き方は変わったと思う。
いつか、何かの手がかりを得て、この生命を納得したい。
僕も、無宗教だと思う。
だが、超越的な「何か」を畏怖する気持ちがある。
本当は、意識も精神もこの世もあの世も無いのかもしれない。
でも、それを「納得」するのも、「今」ここに「居る」としか「思えない」「自我」に委ねたい。