実は、だからこのブログを始めました。
つらつら書いている。
書くことよりも、読むことの方が時間が長い。
みんな、いろいろ面白いことに気づくよなあ、とか、そりゃ違うだろ、とか。
楽しい。
なんで、ここに書いているか。
今、まさに、
そうインプットした=キーボードに入力したために、画面に現れた
「なんで、ここに書いているか。」という文字を見ている。
白地の画面に、カーソルが点滅している。
待っている。
何を? 僕の入力を。
誰が? パソコン、か。
最近、
自分が無宗教であることを悩んでいる?(ように思える)、ひとの書き込みとかを見た。
死ぬときの怖さを「実感」してしまい、それを緩和する方法論を持たないことに恐怖するのだ。
分かるよ。よくわかる。
僕もそうだった。(今でもそうだ)
今の僕の「答え」は。
自分はどこに居るか。
自分を構成しているものは、本当は何なのか。
物理や生物学、心理学とかを見ていると、身体と分離された意識は無いのだと思われる。
更に言うと、
意識とて、その存在を保証するものは無い。あくまで、「自分」の「感覚」だ。
自分がここに存在していると思うのは、自分の体があることを意識する=認識する体があり、視神経が、皮膚感覚が、内臓感覚がそれを訴える、様に「思える」からだ。
意識とて「幻想」
あるように感じているだけだ。(感じているという表現も、感覚があるという前提条件を必要とするが)
多分。
物体としての自分、動物としての、生命体としての自分は、今ここに存在しているのだろう。
だが、
それを意識する「私」というもの、自我、精神、は。
存在を証明出来ない。(と思う)
ちゃんと言うと、(意識などは)無くても生命体としての「自分」は存在しうる。
逆は無いが。(生命体を持たない意識は無いと「思う」)
つまり、
自分の存在を思ったり、悩んだり、嘆いたりするのは、電気信号や化学反応が反映されたものだ。
それが、ただのデタラメなインパルスから、意識という統合されたものに感じられるようなまとまりを持ったのは、
「進化」
なのだろう。
ミームという「もの」を考えるようになってから、僕の生き方は変わったと思う。
いつか、何かの手がかりを得て、この生命を納得したい。
僕も、無宗教だと思う。
だが、超越的な「何か」を畏怖する気持ちがある。
本当は、意識も精神もこの世もあの世も無いのかもしれない。
でも、それを「納得」するのも、「今」ここに「居る」としか「思えない」「自我」に委ねたい。